ある晴れた朝のこと

先天性の心疾患と内臓奇形をもつ息子のこと

「グレーゾーン」という悩み

息子は機能的単心室症。

少しだけ左心室はあるがほとんど無い。

最初の診断の時は、単心房しか書かれていなかったので、もしかして心室は2つあるかも、2心室修復が出来るのかも、と思ったけれど、1回目の手術前に「ありますけど痕跡的です、2心室修復はありません」とバッサリ言われてしまった。

 

そして左心室がほとんど無いということはつまり、息子の持っている心室は右心室だ。

心室は全身に血をめぐらせるために力が強いけれど、右心室は肺にだけ血を送る役割だから、左心室に比べてかなり力が弱い。

もともとの役割ではないのに全身に血を送ってくれるのだから、人間の適応力は凄いなといつも思う。

 

血管が閉鎖していたり、そもそも無かったり、違っていたり、内臓の形が違っていたり、あれこれ合わせて息子は重症と呼ばれる心疾患児だ。

 

息子は、生まれて4日後、退院前日の診察で心雑音が分かったけれど、その日救急搬送されて分かったのは、肺動脈は生まれつき閉鎖していて、動脈管が閉じたら死ぬということだった。退院してたら死んでた。

あの時はいっぱいいっぱいで気づかなくて、むしろ「一緒に退院したかったのに」って思ってた私を助走つけて殴りたい。見つけてくれた先生ありがとう。

 

その割には身体が大きい。心臓以外の合併症も今のところない。ついにICUの先生にまで「体大きいね、大きな手術3つもしたようには見えないね」と言われた。

これは肌の色の問題らしいけれど、顔色も悪くなりにくいから、サチュレーションの低下にも気づきにくい。

グレン前、サチュレーションが75を切っていても「顔色いいね」と病棟の看護師さんと主治医と麻酔医と手術担当の看護師さんとICUの看護師さんが口を揃えて言うのだから、そうなんだろうと思う。

私も、息子の「顔色が悪い」状態が分からない。それはそれで不安だけど。

 

大学病院の外来でも、不整脈も無く逆流も少なく、「良い心臓だね」と褒められたし、基本的には「良い方」なんだろう。

発達については、今のところグレーゾーンの範囲で、保育園で1つ下のクラスに入れてくださいとお願いする程ではない。検診では引っかかるけど、再度来てくださいという流れにはならない。

これは多分病気があって、病院にかかっているからだと思うけど。

 

この年でフォンタンが出来るなんて、医ケアが近いうちになくなるなんて、酸素が外せるなんて、薬飲むだけで良いなんて、口からご飯を食べられるなんて、運動制限がないなんて、合併症が今のところ出ていないなんて。

 

めぐまれているね。

 

よかったね。

 

病気には見えないよ。

 

普通の子に見えるよ。

 

よく言ってもらえる。

有難いこと、喜ぶべきことなんだろうなと思いながらも、複雑な気持ちになる。

 

 

健常に見えても、保育園の申し込みをすれば、「医師の意見書が必要。でも障害枠には入るか入らないか微妙。障害枠になったらあとは園と話してもらって、園の受け入れ次第。」。

ファミサポの加入申請をしようとすれば、「入れないことは無いけど、相手は素人さんだし、相手の方に病気の説明をして、それを受け入れて貰えないとマッチングには進めない。相手の方次第。」。

出来るか出来ないかはその時になってみないと分からない。申し込みをしても確実はない。相手次第。

どこまでも行き当たりばったりで、不安は尽きない。

 

でも、制度の狭間と言うほどでも無い分、息子は恵まれているなと思う。手帳ももらっているし、小児慢性も適応、保育園の申し込みも出来る。

運がよかったということは間違いない。

 

 

今、何に困っているもいうわけでもなく、とどのつまり、息子が医ケア児という枠にも、知的障害児という枠にも、健常児という枠にも入ることが出来ない、グレーゾーンにいるという感覚があって戸惑っているなと感じる。

もちろん枠はそれだけではないし、難病や心疾患児など、名前をつけようと思えばどうとでもつけられるのだけど、何故か、いつまでも燻っている。

 

グレーゾーンの難しさを知っているから、というのもある。

 

 

息子が産まれる前、私は臨床心理士として育児相談や発達の相談を受けていた。発達検査もしていたから、発達障害と診断されたお母さんや、診断はされないが傾向はある発達グレーゾーンのお子さんを持つお母さんともよく話した。

その中で、グレーゾーンのお子さんを持つお母さんと、助け舟の少なさについて話したことがある。

「障害の域に入らない=困っていない、ではない。でも、困っていると言うと『そんなに障害児にしたいのか』と先生や保育士、周りの人に言われる。助けを求められない。家庭では困っていることが確かにあるのに。」

「知的グレーの子は療育は使えない。籍を置いている園や学校で何とかするしかない。これからの成長が担任や担当の先生の対応次第になってしまうことに怖さがある。」

「相談機関に相談しても、『それが出来るなら良い方』『もっと大変な子がいる』『お母さんが受け入れてあげて。出来ることを見てあげて』で終わってしまう。」

「どこを頼れば良いのか分からない」

 

今、お母さんたちの言葉を思い出して、ああそうだな、と思っている。

どこに行っても、なにか相談をしても「まあまあ良い方」という評価を受け、「様子見で良いでしょう」という言葉をもらう。

困った時相談しても、「そこまで大変じゃない」という評価になり、「本当に大変な人はこれができないから、出来てるなら良い方」という言葉で終わる。

 

例えば。

手術入院中に斜頸を形成外科の先生に診てもらった。

息子の首を触りながら、「本当に酷い子はもっと角度はきつい」「ここから動かせない子もいる」「とりあえず首は回せるんだね」「困ってることは?ご飯の時に汁が垂れてくる?はあ…そう。」「長さ、一応測らせてね」「まあ、また見にくるね」と言ったきり、2週間以上なんの連絡もないまま退院を迎えた。

まあ、今まで心臓、目、と受診してきて、「最後で良い」と言われた斜頸だから、重症だとは思っていなかったけど、それでも首の張りがほぐれれば良いなと思っていたし、ぼーっとしている時の角度はそれなりにあると思うし、食事のときに端から汁がだらだら垂れてくるのを改善出来ないかと悩んでいた。

首が真っ直ぐにならずに悩んでいる子どもたちを日々見ている先生方にとっては軽微な悩みなんだろうと思う。診断を改めて下すほどのことではないのかもしれない。

でも悩みを「無かったこと」にされるのはしんどいな、と思った。

 

 

例えば。

4ヶ月検診のときも、まだ首の座らない息子に対して「病院に定期的に通っているんですよね」「様子見で」と言ってもらったけれど、病院では「リハに入る程でも無いんじゃないかな」と言われ、訪問看護やリハの話はされたこともないし、息子の発達は特に何もフォローがない。

療育に通えるかというとそれも難しいという。

つい最近、手を繋いで歩けるようになったから少し安心したけれど、初めてつかまり立ちをし、ずり這いをした9ヶ月から7ヶ月、運動発達は横ばいだった。

 

 

 

こういう悩みをつらつらと書いていると、どこからか「贅沢な悩みだね」と聞こえてくる。

だれが言う訳でもない、私の心の声だ。

私に対しての言い訳をここから書いていく。

もっと重度の子がいるのはもちろん知っている。この間のツイオフで、色んな方のツイートを見て、さらにそう思った。

 

でも私はこういう事で悩んでいる、と発信したい。

 

なぜそう思うかと言うと、もう一年半も前のツイートを久しぶりに見返したからだ。

幡野広志さんという写真家さんのツイート。

幡野さんは血液のがんを持っている方。

本質を抉るような言葉が私には印象的で、胸にグッと来ることもあれば、読み進めるのが辛いこともある。命と向き合っている方だなあと感じることが多い。

また、幡野さんの言葉はしばらく経ってから読み返すと、全く違う印象を持つこともあって、不思議だなと思う。

 

何を読み返したかというと、幡野さんのきょうだい児の方とのやりとりだ。

これを読んだのはまだ息子が生まれる前で、息子の病気もまだ何もわかっていなかった。

当時は冷たい言い回しをするんだなあというイメージが強かったけれど、今読み返すと、そうだなあと思う部分が増えていた。

 

16歳のきょうだい児の方が、障害児の弟がいて、彼のせいで結婚できないという内容の質問箱に、幡野さんが回答したことから始まり、たくさんのきょうだい児が発信したやりとりだった。

だんだん、強い言葉が増えていき、当時TLを追うのがしんどくなったのを覚えている。

その中で、きょうだい児は発信が難しい、きょうだいに障害者がいると言っただけで差別を受けた、という方に対して、「多くの人は障がい者を家族に抱えていません、発信がなければ理解できるわけないんです」と答えていた幡野さん。

 

「変えたい、知って欲しいと思うなら行動を。」

 

この言葉が私の中ではずっと残っていた。

(最近やり方の大切さも身に染みて感じているけども)

(きょうだい児については、息子が生まれてからずっと考えているけれど結論が見えないまま。親の責任とは。罪とは。ぐるぐる。でも、最近話題の仲良し家族の皆さんを見て、決して不可能なことじゃないのかな、と勇気をいただいている。)

 

心臓病児への支援は、親の会の皆さんや当事者、関係者の皆さんが切り開いてきたもの。患者の人数が多いからこそ報われている部分も多いと思う。

以下は小児慢性に心臓病も含まれるようになったという記事。2015年まで含まれていなかったという事実にも驚いたけれど、これにもたくさんの人が動いたのだと思う。

 

http://www.heart-mamoru.jp/__uploads/documents/14346036158111434603611.pdf

(心臓病の子どもを守る会事務局通信 2015年5月号)

 

少数であっても、こんな悩みが「存在している」という事実を文章にすること。まずはそれを書くことが大切なのかなあと思って。

なんの力もないし、立派な人間でもないし、これから社会に何かを訴えるわけではないけれど、グレーゾーンの悩み、病気を持っているけど発達の遅れが少ない子どもがいる親の悩み。

抱えているのは多分私だけじゃないと思っている。

ツイオフで「うちの子は軽度だからなあ」「医ケアがないからなあ」とおっしゃっていた方の中には、もしかして私と同じもやもやを抱えているのではないかなと。

誰かに届けば良いなと思っている。

 

 

逆に、誰かを傷つけるかもしれないという不安も持っている。

もしこの先息子が、突然不整脈を起こしたり、急変したりしたら、私はきっとこのブログを見て泣くと思う。

凄く葛藤を持ってこの文章を書いている。

書いてよかったのか。表に出すのは正解なのか。発信しないでこのまま下書きに置いておく方が良いんじゃないか。

どうしてこんなに葛藤があるのかも分からない。

結局、どうして燻っているのかも。

多分私の中になにか呪いがあるんだと思う。

 

でも保育園の入園も決まって、これからどんどん気持ちも変化していくだろうから、今の気持ちをメモ代わりに残しておく。

 

「良い方」だからって悩んじゃいけないわけじゃない

それは分かっている。

でも、誰に言われたわけではないのに、「こんなことで悩んでるって言いにくいな」って思うことはよくある。

でも、私はTwitterで日常的に吐き出して♡をもらったり、ツイオフで色んな人にリプもらったりして、「私はここにいて良いんだな」という気持ちを積み重ねることで、「でもまあ、みんなそれぞれ悩んでいるしな。自分もこんなことで悩んでたっていいよな。」という気持ちも持てるようになってきた。

悩むにしても、「受け止めてくれる人」の存在が必要なんて、私はめんどくさい生き物だなあと思うと同時に、ひとりじゃないんだなとも感じる。

いつもありがとうございます。

良い話風に終わります。

 

幡野さんの過去ツイートに触れていますが、今回の延命など各家庭によって色々ある事情を一緒くたにして強い言葉で発信されたことにはショックを受けました。幡野さんの全ての言葉を肯定する意思はないです。念のため。