ある晴れた朝のこと

先天性の心疾患と内臓奇形をもつ息子のこと

息子が生まれてからの話②

《先生からの説明》

さすがに6時間も泣くと少しは冷静になるもので、スマホで心疾患について調べるくらいの心の余裕は出てきた。

 

でもいざ先生に呼ばれ、

内臓錯位症候群(多脾症候群の疑い)

完全型房室中隔欠損症

肺動脈閉鎖

下大静脈欠損

単心房

右胸心

たくさんの病名が並んでいるのを見ると、また泣けてきてしまった。

先生の説明はとても分かりやすかったし、難しい話は「後で調べて」と言ってくれるので、逆に混乱しなくて良かったと思う。

それでも、病気の説明をはじめ、

今すぐ命に関わる状態では無いが、動脈管が閉じ始めているので、閉じないよう薬を使っていくこと。

サチュレーションは今95程度だが、それは逆に心臓が頑張りすぎているため、80前後になるよう利尿剤などを使って調整していくこと。

1ヶ月前後を目安に、動脈管の代わりになる人工血管を入れる手術をすること。

その後も最低2回は手術を行うこと。グレン手術、フォンタン手術という名前だということ。

などなど情報は膨大だった。

頭の中で処理している間に先生から「なにか質問ありますか?」って言われて何も答えられなかったんだけど、その時「お母さん気が動転してるみたいだから、またいつでも聞いてください」って纏められたの少し不満に思っている←

 

 

その後息子と面会することが出来た。

息子が搬送されてから8時間近く経っていた。

両手にルート、鼻の管も入っていて、痛々しくて辛かった。

抱っこもできる。母乳もあげていい。

そのことにはほっとしたけど、ガンダムみたいな両手や、胸や足についている線をどう扱って良いか分からなくて、戸惑った自分に失望した。

母乳も全然うまくあげられなくて、カーテンの中汗だくになりながら、また泣いた。

母親らしいこと、母乳をあげることと、抱っこするくらいしか出来ないのに、それすらも満足に出来ないことが辛かった。

 

そんなことをしていたら、もう面会時間も終わりに近づいていた。

互いの両親に結果を報告し、産院にこれから戻ると連絡し、一息ついたらまた泣けてきた。

この日、人生で1番泣いたかもしれない。

 

でも病院から帰った途端、夫以外の前では泣けなくなった。

泣いていると、何故か周りは「病気を受け入れられていない」と捉えているようだった。

うまく書けないけれど、まるで私が「病気を持った息子を受け入れられていない、否定している」ような言い方を、私の知らないところでされるのが1番嫌だった。

息子か病気を持っていることは勿論悲しいけど、でも決して「受け入れたくない涙」では無い。勝手に解釈されるのが何よりも辛くて、先生の前でも看護師さんの前でも親の前でも泣けなくなった。

 

代わりに、布団に入ると涙が止まらなくなった。

夫は1ヶ月、私の実家から会社まで新幹線通勤で、夜は一緒にいるようにしてくれた。

正直すごく助かった。

 

 

《入院中の生活》

それからは面会の日々で、毎日高速で1時間の距離を走った。

とはいえ、床上げまではと私の母がもともと2週間休みを取ってくれていたので、本当に助かった…。

 

面会中は搾乳を渡し、母乳を飲ませ、ミルクを足し、寝顔を愛で、泣けば抱っこし、たまに散歩をして、夕方寝かしつけた後に帰宅する生活だった。

抱っこは相変わらずうまく出来ず、看護師さんがぐるぐるに巻いてくれたタオルを崩さないようにそっと持ち上げることしか出来なかった。

入院してから半月ほどは、ほぼ全部タオルから顔だけ出した写真しかない。

何をするにしてもおっかなびっくりだった。

母乳をあげる時も、産院では前開きの服をフルオープンにしていたけど、病院では看護師さんが急に入ってくることもあるので、授乳口のある服であげなければならず、四苦八苦した。

上手く出来ないから脱いじゃえ!と上裸になった瞬間に、心配した看護師さんから「わさびさん時間掛かってるけど大丈夫?入るねー」と言われて慌てて着たこともある笑

 

息子と夜を過ごしたのは1日しかなかったのに、数日は夜中に何度も目が覚めた。

夜はたくさん心配になり、面会に行って息子が動いているのを見て安心する。

 

そんな生活が続いた。